割かれる愛
愛するというのは、”相手のために自分自身を割く“ ということだ、という話を目にしました。どこでだったか、忘れちゃいましたが。
自分の ”心”を割く。
“時間を割く”
”物理的な手間やお金を割く”。
愛するとは、自分自身の大事なものを 誰かのために自らを差し出し、割くことである。見返りを期待せず!
…むう、なるほど。
たしかに、人間って ”割く“ときに、見返りを期待したりすると、変なことになったりしますね。覚えがあるのは私だけではあるまい。
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ところで、
キリスト教の一派であるカトリックでは ミサの最中に キリストの体とされるパンを 神父が実際に 手で割きます。
そして
”これはあなた方のために渡される 私のからだである”
とキリストの言葉を言います。
愛する者のために自らの存在そのものを割く、その再現がミサのこのシーン、だと思います。
大抵、”ミサ長いーー早く終われ―”と念じてばっかりいるのですが、 この話を聞いて、”ちょっとミサにいってみようやないの〜”と、数年ぶりに早朝のミサに行ってみました。
・・・ミサ、休みでした・・・。